横丁の誕生と変遷

現在の八戸の中心飲食街(長横町・六日町・鷹匠小路・新長横町・岩泉町)は、昭和20年(1945)の終戦によって、新しい時代の到来とともに誕生しました。通り町を一歩入るとうっそうとした木々の生い茂る屋敷町であったところが、現在の中心飲食街に生まれ変わるのに、三つほど大きな出来事がありました。


一つは六日町から鷹匠小路に入る入り口に「ロー丁銀座街・・・雑貨飲食街」が開設されたことでした。昭和21年に佐々木正太郎氏、泉山重吉氏が中心となって、戦地から引き揚げてきた人々のために、土地の所有者であった橋本和吉氏の協力を得て、53コマのマーケットを開設しました。鷹匠小路の最奥に、江戸時代に一時期牢屋が置かれたことから通称「ロー丁」と呼ばれていましたので「ロー丁銀座街」と名づけられました。

二つめは、同じ21年に長横町の中ほどに城前栄太郎氏によって映画館「八戸銀座劇場・・後に日活」が開館されたことが、さらに中心飲食街の大きな原動力になりました。

三つめは、現在の新長横町の奥に昭和24年林八十吉氏によって、当時八戸に駐留していた進駐軍相手のローラースケート場「日米会館」が建設されたことでした。

この三つの施設を結ぶように、戦後まもなくの映画黄金時代を背景にして「文化」「中央・・・後オリオン」「第二中央」「テアトル」「東映」「大映」「大映地下」などの映画館が、昭和21年から30年までの間に陸続と開館し、これと呼応するように映画鑑賞後の人々の空腹を満たすため、施設の周辺に飲食街が誕生。これが今日の中心飲食街形成の礎となりました。
昭和20年代前半には<ロー丁銀座街><たぬき小路>、20年代後半に<銀馬車通り・・・新長横町><長横町れんさ街><ハーモニカ横町>、
30年前後<ロー丁れんさ街>、30年代後半に<五番街><八番街>、40年代には<さかえ丁>など、平成に入り<みろく横丁><八戸昭和通り>などの飲食の横丁が誕生して今日に至っています。
映画鑑賞を中心としながら、パチンコやスマートボール、ボーリングなどの流行に対応して、近隣に娯楽施設が設けられ時代の変化に適応しながら、東北では仙台の国分町に次ぐ飲食歓楽街として、多くの人々に親しまれてきました。
                                                  

                                                        郷土史家 江刺家 均

1960年暮れの長横町れんさ街

昔なつかしい店の看板が見える。

現在でも営業している店もある。
同じく長横町れんさ街

右端に「章」の看板が・・・
いつの頃か???

「ハーモニカ横町」の前身,楢館1番街の画像

現在は,すっかり姿を変え,情緒ある横丁として

色々な撮影にも使われている。
これは,八戸昭和通りと思われる。

この路地は,一昔前まで全て「なら弥」が地主で

現在は合計6人の地主でそれぞれ管理されている。
現在も営業している

「焼肉・大満」のオープン時の画像。

今も昔も飲食店のオープンまでは

急ピッチで工事が進められている。
長横町側から五番街の看板が見える。

現在この看板は無くなったが

周辺の姿はほとんど変わらない。